3月31日 論理的思考力
やべーよ3月終わっちゃったよ!
明日から四年生とか死しかないんだけど!!
はーもう四年生かー。
大学に入ったのがついこの前の気がするわ。
ところで最近、少し気になっている事があるので聞いてほしい。
僕は時々、人はもっと論理的な思考をするべきだと考えることがある。
会話をするときは、自分の言いたいことを筋道立てて言うべきだし、発言は一人が全て言い終わるまで待ってから、するべきだと思うのだ。
もちろん「人間はもっとね~!」なんて言うつもりはないのだが、ふとそのことについて考えさせられることがあったので、挙げたいと思う。
①「鈴木先生」
最近アプリで無料で読めるということで、読み始めた漫画だ。題材は主に中学校の教育問題を扱っている。文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞をしていたり、ドラマ化もされていたりと有名な作品のようだ。
この作品自体はかなり面白いのでおススメなんだが、個人的に注目したいのは鈴木先生の話し方である。
これはとあるシーンなのだが、見てもらえば分かるようにとてもセリフが長い。しかもかなり中身が詰まっているので、飛ばせないセリフだらけである。
なぜこんなにセリフばかりなのかと言えば、それは鈴木先生のセリフがとても論理的だからだ。つまり行間や空気感であいまいにせず、一言一言丁寧に話しているからだ。
加えて、複数人で意見が食い違っているときなどは、必ず一人一人が言いたいことを言い終わるまで待つ。感情的になって、言葉を挟もうとしても止めて、きちんと相手の話を全て聞いたうえで返しているのだ。
この漫画を読んだとき思ったのは「あ、これが僕が求めてた会話だ」ということである。前述したように僕が時々感じていた「人はもっと論理的な思考をするべきだ」という考えを、もし実際にやったらこういう感じなのだろうな、と感じた。
②「幼女戦記」第12話
現在放映中のアニメ、幼女戦記である。
簡単なあらすじ―21世紀初頭の日本でサラリーマンとして生活していた主人公は、リストラ勧告した社員の逆恨みによって地下鉄のホームから突き落とされて命を落とす。死後の世界で創造主を名乗る「存在X」と邂逅し、リアリストな言動と無信仰さを咎められ、戦乱の世界で苦労して反省するよう促され、赤子の女児ターニャ・デグレチャフとして別世界へ転生させられた。(wikiより抜粋)
要は転生ものであり、ある意味で主人公無双系の物語である。
この主人公の特徴は恐ろしいまでの合理主義者であることだ。合理的な行動を旨として、非合理的なものを嫌い、排除する。そんな彼だからこそ、激情にかられてホームから突き落とすという行為が理解できなかった。しかし、ターニャとして転生し戦場で様々なことを経験するうちに、人は合理性だけでは動かないことを知る。
その話をしていたのが最終回である12話だった。
彼女は言う。
「人間という存在は合理性だけでは動かない、愚かな生き物である。(中略)いかに近代化が進もうとも、いかに社会規範が浸透しようとも、人間は時として合理性よりも感情を優先する愚かな生き物である。憎悪に捕らわれた人間は、打算も合理性も損得さえも抜きに、どこまでも抗い続ける。」
これと合わせてもう一つ。
③論理的思考力
僕がIT企業を中心に就活をしているのは前も話したのだが、そこでよく出てくるワードがこれである。
「論理的思考力」
先ほどの合理性とは微妙に違うが、しかし一般的な認識として「筋道立った、矛盾のない(考え方)」というのはあると思う。
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しかし「論理的思考」なんてものは本当に出来ることなのだろうか。確かにIT企業ではプログラミングもするわけで、その点において言えば論理的思考は重要になるのかもしれない。だが、それ以外の仕事に論理的な、合理的な思考を求めることは正しいのだろうか。
少し極端な話かもしれないが、論理的・合理的な思考・行動など、それこそプログラミングされた機械がするべきだと思う。機械の良さは無駄を極限にまで削いだ洗練性にあるのであり、そこに感情などといった無駄が入る余地はない。
現在も進む、作業の機械化・システム化などは、つまり感情などを挟む必要なく、効率の良さのみを求められているからこそであり、僕が当初述べていた「人はもっと論理的な思考をするべきだ」ということを突き詰めてしまえば、会話すらも機械化してしまってもいいことになる。
もちろんこれは極端な話である。
しかし一方で、社会が論理的・合理的な思考・行動をする人間を求めているのは確かだ。
じゃあどうすればいいんだよ!と悩んでいたのが高校三年生あたりの僕である。
そんなことで悩むのはおかしい、と思うかもしれないが、僕の出した答えを聞いてほしい。
その前に僕の中の論理的思考のイメージを伝えておくと、「確かなものを積み上げて、矛盾のない説明・思考・行動をする」というのが僕のイメージだ。
数学の問題に例えれば、確実な計算式を積み上げた結果、答えを導くという感じだ。
このイメージを前提にすると、残念なことにこの世界に全く確かなものなどほとんどない。
隣で笑う友人も、手をつないだ彼女も、親でさえも確かである確証はない。その状況で論理的な思考・行動などとれるわけもない。
しかし、私はこう考えた。論理的思考の意味を間違えているのではないかと。
つまり、数学やプログラミングなどにおける「論理的思考」と日常生活における「論理的思考」は同じ言葉でも、中身が違うのだ。
前者が「確かなものを積み上げて、矛盾のない説明・思考・行動をする」のであれば、後者は「不確かなものが混入するのを予測したうえで積み上げて、矛盾のない説明・思考・行動をする」のである。
簡単に言えば「嘘や偽りや欺瞞を前提に思考・行動する」ということだ。
だから、社会において求められる論理的思考力とは、「嘘や偽りを前提に思考する力」であると思う。
なにも、数学的な論理的思考力など求めていないのだ。そんなものは機械がすればいいことで、人間である我々はそれ以外のことをしなければならない。
~まとめ~
というわけで冒頭に戻ると「最近気になっていたこと=社会が求める論理的思考力とは?」という問題であり、その答えは「嘘や偽りを前提に思考・行動する力」である。
何とも捻くれた悲しい答えが出てしまったものだが、ここで文字に起こしたのは備忘録的な意味を込めてである。
この答えに意見や反論などあったら、是非してほしい。
もっとすごいこと俺、考えてるぜ!って人がいたら教えてほしい。
お待ちしています。